Essay


【ピンホール写真のこと】


  半分凍った池を撮っていた。「何しているんですか。それカメラですか。」小学生の女の子3人が近寄ってきた。「この箱はね、自分で作った、ピンホールっていうカメラでね、この小さい針で開けた穴から写真が撮れるんだよ。」フーン。びっくりしたように覗き込んできた。「ここから写真が撮れるんですか?」

 大抵、ピンホールカメラで撮っていると、大人も子供も興味深そうに聞いてくる。へんな木の箱を三脚に載せて何やっているんだろう、という具合だ。先日谷津干潟で会った男性は「ライカに凝る人も居れば、こんなのに凝る人も居るんですね。」と妙な納得をしていた。(「こんな」はないだろう・・・)

 97年春、偶然に出会った、エドワード・レビンソン氏のピンホール写真に魅せられてしまった。翌年、自分で実際にカメラを作って撮ってみたら更にのめりこんだ。レンズで撮った写真とは明らかに何かが違う。何だろうとずっと考えてきた。昨Sunset at the Yacht Harbar 1998秋、ピンホール写真の個展を見に来た人(会社の会長だったのだが)いわく、「人間の目っていうのは、時間をかけて見ているんだよなぁ。だから(この写真が)心にしみてくるんだよなぁ。」趣味はゴルフだけと思っていた彼の鋭い感想にびっくりしてしまった。

 そうなのだ。ここに重要なヒントがある。レンズはこちらから風景を切り取る、能動的な作像手段である。シャッターを切るという。瞬時の光をこちらから切り取っている。 それに対してピンホールとは、f値が130−360もある「超できそこない」のレンズ(針穴)だから、露光時間がやたらとかかる。シャッター代わりに私はブラックテープを使っているが、撮影時テープを外して、「さあ、光よ、この箱に一杯になるまで溜まっておくれ。」と念じながら撮っている。つまり極めて受動的な撮影なのである。

1/60秒とか1/250秒の世界というのは、実際は人間が見ているのとは違う映像世界なのではないだろうか。人間はもっと時間をかけて対象を見ている。もちろんピンホール写真は動画(ムービー)ではない。だが、その時間を一枚の写真に溶かし込んだ、なにかを見る人が感じるのではないだろうか。

加えて、ピンホールには意外性の楽しみがある。私のカメラ(暗箱)にファインダーは無い。撮影は、対象と光を「肉眼」でじっくりと観ることから始まる。狙いをつけて暗箱を対象に向けて撮るのだが、出来てみないと最終的な構図や光の周り具合は分らない。失敗も多いが、予想外にいい画が出来ることもある。その時の喜びは大きい。

 ピンホール写真で個展をやろうと思った動機のひとつに、2年前から公開している、このホームページへの反応の多さがあった。99%はピンホール写真に感動してメールをくれる人だった。余りにも感動してくれるので、パソコンじゃ本当の写真は見せられない、是非プリントを見せたいと思った。そんなホームページファンが個展来場者の1/3に達した。島根から夜Grass by the brock 2000行バスで駆けつけた女子学生も居て私が感動してしまった。

 私のピンホール写真はレンズでも撮れそうな風景が多い。他のピンホール写真家が好む対象やピンホール的技法は意識的に避けている。そして、好んで撮る対象は、コンクリや鉄だったり、雑草などの、普通だとおどろおどろした写真になりがちな物が多いのだが、ピンホールで浄化して調和のとれた、安らげる写真にすることによって、より心に訴えられる作品を作り続けられたらと願っている。

(2001年3月 船橋写真連盟会報に寄稿)

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